第3回
江戸時代にみる震災と復興
2011.04.05 [安藤 優一郎]
はじめに
戦争のない平和な時代というイメージが強い江戸時代も、徳川三百年の間、様々な災害に見舞われている。当時世界最大の人口を誇った百万都市江戸も、その例外ではない。安政2年(1855年)に江戸を襲った大地震はその最たるものだった。
今回の大震災特別寄稿では、今から約150年前に起きた安政の大地震を題材として、どのように江戸の人々が災害から立ち直り、復興していったかを明らかにする。
町奉行所の迅速な対応
安政2年10月2日午後10時頃、江戸をマグニチュード6.9の地震が襲った。江戸城の御殿は無事だったが、江戸の町は大惨事となる。建物の倒壊で落命するだけでなく、時を移さず上がった火の手に巻き込まれて焼死した者も多かった。被害の規模は定かではないが、死者は少なくとも7000人、焼失した家屋は14000戸を超えた。
現在の東京都庁や警視庁に当たるのが、時代劇でもお馴染みの江戸町奉行所だが、運良く倒壊を免れている。北町奉行所は東京駅、南町奉行所は有楽町駅近くにあり、与力・同心たちは八丁堀に住んでいた。距離にして1キロ強、火の海のなか、奉行所に駆け付けている。そして夜のうちに、次のような方針が取りまとめられた。
- 炊き出しを行い、握り飯を配付する
- 家を失った者を収容する御救小屋を建設する
- 怪我人を手当てする
- 諸問屋の総代を集めて日用品や必需品を買い集めるよう指示を下す
- 職人組合の総代を呼び出し、諸国から職人を集めてくるよう指示を下す
- 商人による売り惜しみ、買い占め行為を取り締まる
- 物価、職人手間賃が高騰するのを取り締まる
1~3は緊急を要する対応、4~6は震災後に予想される物資・人手不足への対応、7は震災に便乗する行為の禁止である。
明けて3日朝、早くも握り飯と沢庵が配られる。江戸の町には、⑦の内容を趣旨とする御触が出された。4日には、野宿を強いられている者を御救小屋(5カ所)に収容する旨の通達が出される。小屋には5日夕方より入所可能となる予定で、半日もかからず1000坪ぐらいの小屋が建設されたという。あらかじめ、奉行所が請負業者を指定していたからである。
町奉行所の対応は非常に迅速だったが、翌朝より配られた握り飯などは、どこから調達されたものだったのか。実は、江戸の町にはこうした災害に備え、大量の米穀が蓄えられていたのである。
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