江戸の名残を歩く

バックナンバー

第12回
向島を歩く・その3

榎本銅像

向島シリーズの3回目は、東武伊勢崎線鐘ケ淵駅からスタートです。墨堤通りに向って歩いていきましょう。数分歩くと、鐘ケ淵陸橋につきます。ここから墨堤通りが南北に走っています。
墨堤通りを南に少し下っていくと、都営白髭東アパートと墨堤通りの間に造られた格好の梅若公園が現れます。その公園内には、銅像が立っており、この人物こそ箱館五稜郭まで逃れ、明治政府に最後まで抵抗したことで知られる榎本武揚です。
榎本武揚は政府に降伏した後、東京に護送され、獄中生活が長く続いていました。しかし、赦免されると、一転政府に召し出されて、外交官に転じ、外務大臣まで勤めました。
明治38年(1905年)から死去する明治41年(1908年)まで、この墨堤通り沿いに造られた屋敷に住んでおり、墨田区とも縁のある人物なのです。屋敷は、前回訪れた長命寺の近くで、墨堤を毎日馬で散歩していたと伝えられています。この銅像が造られたのは大正2年(1913年)のことでした。

木母寺入口

白髭東アパートを抜けて、東白髭公園に入っていきましょう。そのまま、隅田川縁を走る首都高速道路に向って歩いていくと、お寺が見えてきます。江戸のころは、梅若塚があることで知られた木母寺です。
平安時代のころの話です。吉田惟房という公家の息子梅若丸が人買いにかどわかされてしまいました。京都から奥州へ連れていかれる途中で病気となり、貞元元年(976年)に隅田川のほとりで12歳の生涯を終えてしまったのです。

梅若塚
梅若堂

この梅若丸が葬られた塚が梅若塚です。謡曲「隅田川」の題材となったことで浄瑠璃や歌舞伎の舞台で取り上げられ、梅若丸の名前は広く知られるようになります。
そして、塚の横には梅若丸とその母の後生を弔う堂社が造られました。これが木母寺のはじまりです。境内には、梅若塚を訪れる観光客を相手にした茶屋や料理屋もあったそうです。

コメント