江戸の名残を歩く

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第24回
谷中の大仏を訪ねる

今月からは、台東区に江戸の名残りを訪ねます。お散歩でも人気の高い台東区谷中を歩いていくことにしましょう。日本人だけではなく、日本文化に触れたい外国人観光客にも人気のある街です。

谷中天王寺の標識

谷中というと、名前の通り起伏のある街として知られています。谷の中に数多くのお寺が立っていますが、江戸のころは谷中といえば天王寺でした。天王寺から、梅雨間近の谷中歩きをはじめましょう。

天王寺への道。左が天王寺です。

日暮里駅を出て、谷中の街に向かって御殿坂を下りていきます。そのまま進むと、懐かしい昭和の光景を髣髴(ほうふつ)させる谷中銀座通りに入っていきますが、その前に日暮里駅の西側に広がっている天王寺の境内に入りましょう。その先に谷中霊園があります。

天王寺の門

天王寺は徳川将軍家の厚い帰依を受け、広大な敷地を境内として賜りました。その規模は三万坪以上にも及びます。現在では見ることのできない五重塔をはじめとする多くの堂社も建てられましたが、江戸っ子にとっては、富突(とみつき)の会場として親しみのある寺院でした。
富突とは、現在でいうと宝クジのことです。江戸では寺社の境内で富突が興行されましたが、天王寺の富突は「江戸の三富」と称されたほどの人気を誇ります。
江戸時代は天台宗寛永寺の末寺でしたが、元々は日蓮宗の寺院でした。しかし、日蓮宗のなかの不受不施派(信者以外からは施しを受けない。信者以外には仏徳を授けない)に属していたことで、幕府から危険視され、天台宗への改宗が命じられます。当時は感応寺という名前でしたが、11代将軍家斉の時に天王寺と改名します。

境内の大仏

そんな変転に富む歴史を持つ天王寺でしたが、徳川家から厚い信仰を受けていたがゆえに、幕末から明治維新という激動の渦に徳川方の寺院として巻き込まれることになります。慶応4年(1868)5月15日の彰義隊の戦いでは、明治政府に抵抗する彰義隊の一部が駐屯したため、建物に兵火が掛かり、堂社の大半が焼失します。天王寺の本山である寛永寺も同じ運命をたどりました。寛永寺には彰義隊の本隊が駐屯していたからです。

五重塔へ

明治3年(1870)には、境内地16000坪ほどが政府に取り上げられます。同7年(1874)には、さらに15000坪あまりが東京府の共同墓地谷中霊園となります。谷中霊園の歴史は、ここにはじまるのです。

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