第34回
隅田川で吉原での首尾を語り合う
2012.12.18 [安藤 優一郎]
浅草橋界隈を歩く3回目は、浅草橋のすぐ北に広がる蔵前の街で江戸を探してみることにしましょう。
浅草橋駅を出て、江戸通りを北に歩きます。5分ほど歩くと、台東区浅草橋、台東区柳橋という町名から台東区蔵前に変わります。
江戸の頃、この辺りには米蔵が建ち並んでいました。幕府が諸国から集めた年貢米が収納された蔵です。幕府はこの米蔵を浅草御蔵と呼んでいました。
蔵前の西隣は台東区鳥越という街です。鳥越には鳥越神社が鎮座しています。そこにあった丘を切り崩した土を隅田川縁に運び、その土をもって造成した上に、米蔵が建てられました。
浅草御蔵の敷地は3万坪以上にも及び、。蔵の数は67棟もありました。この米蔵に50万石以上もの米が貯蔵されていたといいます。
この辺りに店を構えたのが、札差(ふださし)と呼ばれた商人です。旗本や御家人は給与として幕府から俸禄米を支給されましたが、そのまま持ち帰ったのではありません。札差が換金してくれました。
そうした作業の都合上、札差は米蔵の前に店を構えるようになります。そして、いつしか札差が店を構えた場所が御蔵前と呼ばれるようになり、そのまま蔵前という地名になったのです。町名、駅名にもなりました。
浅草御蔵跡の現在。東京都下水道局の建物です。
浅草御蔵の碑
現在、浅草御蔵だった場所には東京都下水道局の建物が立っています。隅田川縁に立つ浅草御蔵の石碑だけが、かつての面影を伝えます。
首尾の松
隅田川は流域によって名称が異なりますが、浅草御蔵がある辺りは浅草川とも呼ばれていました。この隅田川こと浅草川の辺りには、あるランドマークがありました。首尾の松という一本の大きな松が植えられていたのです。
この松が、首尾の松と呼ばれるようになった理由については諸説あります。船に乗って吉原に遊びに行く者たちが、この松を見ながら今宵の吉原での首尾を語り合ったからというのは、その一つです。
実は首尾の松と言っても、現在の首尾の松は7代目です。初代の松は、安永年間(1772-80)に風災で倒れてしまったそうです。その後、植えられた松も枯れたり、あるいは関東大震災などで焼失します。そして、現在の7代目に至るわけです。
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