第2回
手作業でモノを作る意味
2012.01.24 [星野 正紀]
スイッチボタン1つ押せば、1つのモノ(または1つの工程)ができ上がる便利なこの時代、ハンドメードに必要な道具離れがどんどん進んでいる。
私が小学生だった頃、私の筆箱にはいつもボンナイフで削られた美しく尖った鉛筆が並んでいた。クラスの男子は競い合うようにボンナイフで鉛筆を削り、「美しい鉛筆」を「作って」いた。きれいに削れる子はヒーローとあがめられ、女子にも一目置かれていたし、うまく削れない子たちは、ヒーローを横目で見ては羨ましがったりやっかんだりと、さまざまなドラマが展開されていた。
ヒーローはヒーローであり続けるための努力を続け、二番手や三番手はそれを追いかける。初めから諦める子もいたが、そういった子は別のカテゴリーでヒーローへの道を目指す。
鉛筆削りのヒーローは、ボンナイフの刃をカッコよく鞘(さや)から出すパフォーマンスなどの技も磨いた。まるで、手のひらでジッポライターをもてあそぶ大人のように。
その昔、「あそびの数だけヒーローがいる」というCMのコピーを思い出す。
手でモノを作っていた時代は、器用な人と不器用な人との差が歴然としていて、モノ市場においても、個性を持った凹凸な商品が並んでいた記憶がある。モノ作りに興味のある者にとっては、とても楽しかった時代でもある。
また、百貨店でワクワクしたあの頃、陳列棚には個性豊かな商品があふれていた。商品独自の個性が輝きを放ち、商品それぞれがオーラを持っていたから、消費者は目を輝かせながら商品を眺め、手にとっていた。
ハンドメードによるモノづくりは、長い時間をかけて蓄積された「技術」と「知恵」が生かされ、職人おのおのが持つ「勘」がさらにそれを進化させる。
だが、今やそれらは誰でもモノづくりが出来る道具「機械」にとって替わった。目指すはスイッチボタン1つでモノができる機械というところだろうか。作業に携わる人は、でき上がるモノより、製造機械を監視することが仕事になってしまった。機械がしっかり動いていれば、間違いなく正しくモノができるからだ。でき上がるモノには、二番も三番も無く、すべてが一番であり、すべてが美しい。
しかし、忘れてはいけないのは、「失うもの」がとても大きな「代償」となって存在するということ。凹凸の無い社会は退屈で活気が無く、ヒーローを生み出す機会も減らしていく。
ヒーローとも呼べる職人の多くが仕事を失っている。職人がいなくなれば、幾世代も継がれてきた技や知恵が途絶えてしまう。ヒーローを失ったら、私たちは何に敬意を感じ、何を目標として生きていくのだろう。
コメント