大震災特別寄稿

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第6回
フロムナウ取材陣が感じた震災41日後の“福島”〜その2〜

防波堤は崩れ、波消しブロックは陸に打ち上げられた

市内の一部が福島原発から20km圏内に含まれ、立ち入り禁止の「警戒区域」、そのほかも「緊急時避難準備区域」に定められた南相馬市。今回、南相馬市を目的地に定めたのには、津波の被害を取材することに加え、もう1つの理由があった。それは、取材した4月24日、全国のサーファーに呼びかけられた震災の追悼イベントが催されていたためだ。サーファーは、自分たちがいつも波に乗っているホームの海へ集い、地震が起きた午後2時46分に1分間の黙祷を捧げようというのである。

「南相馬の海は、サーフィンの世界大会が催されるほど、サーファーに名の知られた場所なのです」と山口氏。それが今では、「海に入ろうという気持ちにはなれない」(佐藤氏)という状況になってしまっている。南相馬市内の海岸線沿いに入ると、ここにも津波によって全て奪われ、何1つないという光景が広がっていた。道ばたには、周辺に住んでいた方の持ち物だろうか。瓦礫の中から見つかった、手帳や写真などが1個所に集めて置かれている。引き取り手のない住民たちの記憶だけが、海からの風を受け続けているのだ。

南相馬の海沿いは、田畑と住宅が点在するような場所だったそうだが、津波によって見渡す限りの野原に変わってしまった。一体、どこに家が建っていたのか……と思うほどだ。表現は悪いが、津波が何もかもを根こそぎ持って行ってしまったため、津波に襲われる前の街を知らない人から見ると、ただ単にキレイな水平線が広がっているように思えてしまうほどである。


この海で技を磨き、プロサーファーとなったという佐藤聡氏は「津波が来る前は、地平線なんて見えるような街ではなかったのです。景色が一変してしまいました」と語る。どこまで5分、10分と走っても、同じような地平線が広がっている。おそらく、南相馬だけでなく、宮城県、岩手県の海岸沿いまで、延々と同じような光景が広がっているのだろう。そう考えると実に恐ろしい。

さらに驚くべきことは、人の手だと1ミリたりとも動きそうにない波消しブロック、堤防の残骸のようなコンクリート片が、この野原に変わった一帯に何十、何百個と打ち上がっていることである。波打ち際から、優に何百メートルか、1km位はありそうな場所にである。この有様が津波の恐ろしさ、押し寄せる力の強大さを語っている。

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