大震災特別寄稿

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第3回
江戸時代にみる震災と復興

江戸の支えあい

罹災民に配られた握り飯は、町奉行所管轄下の町会所が保有する米を焚き出したものだったが、いったい町会所とはどういう機関なのか。

町会所は、寛政4年(1792年)に時の老中松平定信肝煎りで設置された備荒貯穀施設である。平時より莫大な量の米を蓄え、火災や震災時に罹災民へ配給することを主な役目としていた。

蓄えられた米穀は、江戸の町から徴収された七分積金をもって買い入れたものだった。七分積金とは、あらかじめ節約可能な行政費を江戸の町に申告させ、その70%を納入させた積金のことである。災害時に備えた江戸っ子たちによる積立金のようなものだ。その額は、江戸全体で毎年2万両を越えた。現在の金額に換算すると、10億円以上に相当するだろう。

その積金を元手に買い上げられた米は、神田川沿いの向柳原の地に建てられた蔵に収納された。現在の秋葉原駅近くにあった。安政の大地震が起きた時、町会所が保有していた備蓄米は46万石を超えていた。その備蓄米を焚き出しに用いたのだ。

震災時に救済活動を繰り広げたのは、町会所という行政機関だけではない。建物が災禍から免れた江戸っ子は炊き出しをして、家を失った隣近所に握り飯などを分けている。「店子といえば家族同然」という言葉があるように、その町の地主たちが町名を記した幟を立て、店子に握り飯を配る光景が各所でみられた。行政レベルだけでなく、民間・地域レベルの助け合いが、震災後の社会不安を抑える大きな役割を果していたのである。

こうした炊き出しなどの行為は当時、「施行」(せぎょう)と呼ばれていた。施しという意味である。生活苦に陥った人々への施行は広く行われていた。その主体は主に商人だが、商人に限らず裕福な町人たちも施行ということで金品を拠出している。現在で言うと、義捐金のようなものだろう。

安政の大地震でも、生活に余裕のある町人たちは御救小屋に物資や金品を差し入れたり、自分が住んでいる町で生活苦に陥った者に金銭を施している。商人の場合、仕事で出入りしている業者も対象だった。そうした施行が、災害が起きるたびに広くみられたのである。

町奉行所も、裕福な町人たちによる施行を表彰した。行政レベルでの対応には限界があるため、民間レベルの助け合いに期待する気持ちが秘められていたことは一目瞭然だろう。こうした助け合いにより、社会不安は沈静化していくのである。

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