第6回
~音を織り、織りから聞く~
2015.01.30 [寒川晶子]
みなさまこんにちは。
2015年を迎え、1月も終わろうとしています。
新年一回目のコラムになりますが、現在進めているプロジェクトの一つをご紹介したいと思います。
それは、ピアノと織物をテーマにしたプロジェクト!
自分の故郷が織物の盛んな西陣の場所であることから、織機の音を普段から耳にして過ごしてきました。学校帰りに歩く道で「ガチャガチャ」という音、そして、織物屋さん(織り職人さんや卸・問屋さん)に生まれた幼なじみや同級生がいたのもあり、織物が日常だったことを思い出し、ピアノと織物をテーマに考えることにしました。
最初はそんなきっかけでスタートしたものの、意外でもなく実は必然性のあるテーマだったことに気づくのですが、調べていくうちに壮大なものになりそうで、私は公演を行いながら少しずつこのテーマに歩み寄っていくことに決めたのです。
どうやらピアノと織物は繋がる必然があります。ということでまず織物の、中でも「西陣織」のお話をしましょう。
平安時代以降、国内の染織の中心が京都だったとされており、現在は京都の織物を『西陣織』と呼んでいます。しかし、西陣織は応仁の乱以降に呼ばれた呼称で(友禅染も江戸時代に用いられた技法の名前)、実際には国内における染織文化は古く弥生時代まで遡ります。
染織技術を日本へ伝えたのは渡来人の秦氏(はたうじ)と言われ、彼らは紀元5世紀後半頃に朝鮮半島東部の新羅国(しらぎのくに)から渡ってきた民族と考えられています。中国秦王の子孫とも言われ、古墳時代の日本に渡来して大和朝廷の国家形成に大きな役割を果たしたとされており、こうして中国大陸から伝わった技術は、山城太秦(京都市右京区)の地を根拠にして京都全域に勢力を広げ、治水や土木、養蚕、冶金、酒造など進んだ大陸文化の技術を広め、特にそのうちの養蚕や機織・染織の技術に長けた者は飛鳥朝の染織文化に大きな功績を遺しました。
京都の織物業は平安京以前にも盛んであったようでしたが、秦氏の援助を借りた桓武天皇によって794年に平城京から平安京に遷都されてから、国策として宮中の織物を製作する「織部司」が大内裏に設けられました。織部司では宮中の皇族や高級官僚の制服と調度、また、まつわりごとに用いられる儀式用の織物を製織し、厳正な規格に従って製作をしました。ところが平安中期以降の政治の乱れから製品の規格に統一が取れなくなります。
やがて工人が私的に織物を製し、高位官人の館で勝手に専属の織物工房が営まれるなどして、それを制する令が度々出されるほどに官製以外の織物が盛んになっていきました。
その後、ぐっと時間を早回しして江戸期に入りますが、江戸時代では西陣織はあらゆる織物類が作られ、本場の中国にも勝るとも劣らない織物を流通させていました。その250年間は徳川時代。この時代に織物国家を自負するほどの盛業が続きますが、一方で、16世紀まであまり発展しなかった西欧での織物技術が、16世紀以降に東欧や中国から織物技術を収得し、ルネッサンス期を経て織技の改良に展開を見せていきます。産業革命における機械の発達で、多量生産を可能とするに至りました。
ジャカード織機2台置き
やがて19世紀中頃に日本が開国を行った頃は、気がつけば日本と西洋の織物技術と生産態勢には大きく差がついており、東京遷都を経験した京都は都市機能が沈滞することを危惧し、都市であり続けるための産業と経済の地固めの事業の一環に染織技術の改良を行うのです。
その最初の取り組みが、欧米の最新織機「ジャカード織機」の輸入です。
ちなみに写真にあるジャカード織機は、京都市内にある紫紘株式会社内の織機ですが、2台置きは、国内において大変珍しいようです。
「ジャカード織機」輸入にともない、西陣から3名を欧州へ派遣、技術を収得した3名は日本に持ち帰ることに成功し、その後、素材や仕様の異なる異国の機械を日本人特有の器用な技術を持つ大工、荒木小平によって改良、ジャカード織機による織物技術の刷新と合理化(近代化)が西陣で行われました。
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