第19回
「記憶の足跡」
2016.03.30 [寒川晶子]
大学生の時ですが、ある教授が音楽はヌードだ、とおっしゃっていたのを思い出します。
裸体を写真で撮られるのと同じくらい、楽器演奏はその人をよく表すということで、見る人が見ればその演奏者の特徴や癖のようなものはすぐにわかってしまうのです。
記憶が失われても感性が潜在的に蓄積されていた場合は、その人自身が過去を思い出せない状態でも絵や音、表現によって現れるため、失ってしまったものや記憶を探るには大きな手掛かりになるのです。
このようなことから、脳は言葉をつかさどる分野と身体が離れてしまっても、ときにダイレクトなものを伝達するのですね。現在の社会のほとんどが言葉によって成り立っているとも言えるなかで、人間の感性は昔から現在まで未だ変わらず身体を通して生きていることに気づかされますし、その潜在的な記憶力に思わず感動してしまいます。
ところで、ソロで朗々と奏でる音楽は身体によって記憶される表現の一つですが、体験を通して癒され、やりがいと共に忘れない出来事になるのは合唱ではないでしょうか。合唱のような「連帯感」は記憶をより一層強いものにします。
他者と合わせる調和のとれたハーモニーは響きが豊かになりますし、互いに奏でる音程がピタっと相性良く出会ったときに響く感覚は、経験を重ねるほど「合う」の意味が深まり、身体にも浸透していきます。表現することは足跡を残すことでもあります。
時代の流れを静かに見守りながら年輪に記憶を残していく木、山々もまた素晴らしいですね。
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