第10回
深くて、本当はおもしろい――国語辞典の世界
2012.11.06 [村上 充]
例えば、【右】という言葉を、さまざまな辞書たちが、どう説明しているか、調べてみましょう。「南に向いた時、西にあたる方」(広辞苑)、「アナログ式時計の文字盤に向かった時に、1時から5時までの表示のある側」「『明』という漢字の『月』が書かれている側と一致」(新明解国語辞典)、「この辞典を開いて読むとき、偶数ページのある側を言う」(岩波国語辞典)、「人体を対称線にそって二分したとき、心臓のない方」(明鏡国語辞典)などと、それぞれ苦労しながら説明している姿、確かに、なんだか愛おしく感じられてくるような……。
続いて、【恋愛】という言葉を『新明解国語辞典』で引いてみましょう。「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られ、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。」(第五判)と、こってりした記述ですね。ライバルの『岩波国語辞典』では「男女間の、恋いしたう愛情。こい。」と対照的にあっさりと記されています。両者の個性の違いを感じますね。そういえば、『舟を編む』にも、「恋愛」を男女間のみに限定してよいのか、と主人公たちが議論する印象的なシーンがありました。
タツオさんによると、『新明解国語辞典』は、実際にその言葉がどう運用されているかに注目して、用例を豊富に収録する「用例主義」を打ち立てて、野を駆け巡って、現場でいろいろな事例を見て、集める田舎のエリートのイメージ。かたや、『岩波国語辞典』は、新語や俗語の採録に慎重な保守派で、すっきりした語釈が特徴の都会のエリートのイメージだそうです。
『新解さんの謎』(文春文庫)といった本まで発行された『新明解国語辞典』は、累計発行部数2,080万、小型辞典の3割以上を占める人気辞書です。編集主幹の山田忠雄による既存の辞書へのアンチテーゼが色濃く反映された独特の語釈で有名で、タツオさんによると「2冊目の辞書」として、お勧めとのことです。初版の序文には、「辞書は、引き写しの結果ではなく、用例蒐集と思索の産物でなければならぬ」と高らかにうたわれています。
「辞書は、引き写しの結果であってはいけない」といった山田忠雄の主張がありましたが、「近代国語辞典の祖」と呼ばれているのが、1891年に全4冊が刊行された『言海』です。この辞書の誕生は、明治政府樹立後、欧州にならって、国語辞典を持つことが、近代国家としての急務となり、文部省の職員であった大槻文彦にその任務が命じられたことにさかのぼります。しかし、完成後、文部省から刊行される予定であったこの辞書は、予算が取れなくなったために、お蔵入りの危機に陥ります。大槻は悩んだ挙句、自費での出版を決意し、自宅での校正作業を進めます。16年の歳月をかけて『言海』は完成しますが、その間、出版社の倒産、資金集めに奔走してくれた友人、幼い娘、妻を失ってしまうと相次ぐ悲劇に見舞われてしまいました。辞書編さんもほぼ終わりとなる「ラ行」の項で「露命(ろめい)」という言葉に当たったとき、思わず涙をこぼしたという切ないエピソードが伝えられています。
コメント