江戸の名残を歩く

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第14回
錦糸町を歩く・その1

錦糸町駅前

墨田区にはJRの駅が二つあります。前回取り上げた両国駅と今回取り上げる錦糸町駅です。錦糸町は両国に比べると江戸のイメージは薄いといえますが、実際に錦糸町駅界隈を歩いてみると、江戸以来の史跡に数多く会うことができます。
2回にわたって、墨田区錦糸町界隈を歩くことにしましょう。
錦糸町という名称は、錦糸堀という堀に由来するといいます。まず、錦糸堀から訪ねてみます。

伊藤左千夫の碑

JR錦糸町駅南口を出ると、歌人伊藤左千夫旧居跡の碑が現れます。伊藤左千夫はこの地で牧場を経営し生活が安定すると、短歌の勉強をはじめました。そして、短歌雑誌「アララギ」を発行し、その名が知られるようになります。
さて、両国から錦糸町にかけては今も平坦な土地ですが、江戸のころは本所と呼ばれた地域でした。江戸幕府が誕生したころ、本所は湿地帯でしたが、江戸が百万都市として拡大していくにつれ開拓が進みます。幕府は堀を開削して水はけを良くすると共に、埋め立てにより地ならしをすることで、本所を住宅地に変えていったのです。錦糸堀も、そんな本所の開拓の歴史から生まれたのでしょう。

錦糸堀公園

京葉通りの近くに錦糸堀公園があります。この辺りに錦糸堀があったといいますが、別名もありました。「置いてけ堀」という名前です。落語などで、その名前を聞いたことはあるのではないでしょうか。

おいてけ堀

「置いてけ堀」とは、本所七不思議と呼ばれた怪奇話の一つです。本所には堀などの水路が数多くありましたが、その一つ錦糸堀で釣りを楽しんだ江戸っ子が日が暮れたので家路につこうとします。その時、「置いてけ」という声がどこからともなく聞こえました。釣り人が魚籠を覗くと、釣ったはずの魚が一匹もいません。怖くなった釣り人は、一目散に家に帰ったというお話です。

河童の像

江戸の人々は、これを河童の仕業と考えました。そうした訳で、錦糸堀公園には河童の石像があります。背中には、釣った鯰を背負っています。錦糸堀のほか、その近くを走っている横十間川が「置いてけ堀」であるという説もあります。横十間川も、本所が開拓される過程で開削された水路でした。

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