第5回
覚馬の異変
2013.06.11 [安藤 優一郎]
覚馬は堂々たる体格を誇っていました。なんと、体重が八十二キロもあったといいます。アスリートのような体型を持つ西島秀俊さんとは、少しイメージが違いますね。
覚馬は鉄砲や大砲だけでなく刀や槍(やり)の使い手であり、武芸の達人でした。
現代風にいうとスポーツ万能な男性で、八重からみるとパーフェクトな男性でした。病気とも無縁でした。
ところが、まさに天のいたずらか、京都で会津藩と長州藩が激突した禁門の変のころより、目を患いはじめます。そのため、京都御所内にあった清浄華院という建物で長きにわたって療養しています。
覚馬は砲術指南役の家に生まれました。
藩士に大砲や鉄砲の使い方を教える役職で、若いころから大砲などの硝煙(しょうえん)を浴び続けたため、そのことが視力を失った一因と伝えられています。やがて覚馬は、失明してしまいます。
覚馬が視力を失い、徐々に行動の自由を失っていったことは、会津藩にとり大きな痛手でした。
覚馬は京都にいた会津藩士のなかでも、薩摩藩など他の藩の藩士たちに知り合いが多いことで知られていました。外交官のような役割を果たしていたのです。
そんな覚馬が、京都で会津藩が危機に陥ったときに失明したことは、薩摩藩をはじめ他藩との交渉においてたいへん支障をきたしました。その結果、会津藩が孤立していったからです。
失明しなければ、覚馬は敵となった薩摩藩との間を取り持ち、間もなく訪れる会津藩滅亡の悲劇も避けられたかもしれません。
覚馬が徐々に視力を失うなか、元治元年の禁門の変では会津藩と手を結んで長州藩を京都から追い払った薩摩藩は、長州藩との提携に踏み切ります。坂本龍馬が仲介した「薩長(さっちょう)同盟」です。
これを契機に、京都にいた会津藩は転落の道をひた走りますが、国元でも悲劇が起こりはじめていたのです。
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