第5回
覚馬の異変
2013.06.11 [安藤 優一郎]
文久二年から千人もの藩士が京都に住んでいたため、国元の会津では当主、つまり父親がいない家庭が過半数を占めていました。
そして、容保の守護職在職期間が長期化することで、父親の不在も長くなりました。各家庭に亀裂が入っていくのは時間の問題でした。
父親が京都詰めとなった藩士の家庭では、残された子どもたちが藩校日新館に通学しなくなってしまいます。欠席者も多かったようです。
たまに出席しても、火鉢にあたって何か物思いにふけるありさまでした。
京都にいる父や兄のことを案じるあまり、学校に出てきても学問や武芸の稽古(けいこ)に身が入らなかったのです。
子どもたちが心情不安定になっていた様子がうかがえます。
気持ちが落ち込むのは大人も同じで、会津城下は陰鬱(いんうつ)な空気に包まれていきます。
藩士は京都詰めを内心では嫌がっていました。
ですが、迷惑であると申し立てるのは、守護職を勤める容保(かたもり)に対し、家臣として許されるべきことではありません。
覚馬の家庭も問題を抱えていました。京都生活が長くなるということは、別居生活が長期化するということです。妻・うらとの間には娘・みねがいましたが、長い別居生活は互いの心を遠ざけます。うらとの仲が冷え切ったものになることは避けられませんでした。
そして、覚馬のそばには身の回りの世話をする時恵という女性がいました。覚馬よりも二十才以上も年下でした。いつしか二人は男女の仲となります。
覚馬の立場に立てば、視力を失いつつあったことへの不安から逃れたい気持ちが心の奥底にはあったのかもしれません。また、時恵と一緒にいることで、失明の恐怖感を紛らわせたかったのかもしれません。
ですが、どういう事情であれ、うらにとっては裏切りです。八重の尊敬する覚馬にも、心の弱さがあったのです。
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