お取り寄せからみたニッポン

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第8回
茨城県・個性を尊重する多彩な笠間焼

自由闊達にさまざまな陶器を作り出す

ここ数年ですっかりヘルシー料理の定番となったのが、とんがり帽子のような土鍋で野菜を蒸し煮にするタジン鍋。ちょっと洒落た一点ものをみつけたのだが、これが笠間焼のタジン鍋だった。しかし正直にいうと、笠間焼と聞いてもすぐには茨城県が思い浮かばなかった。店員から、春の『陶炎祭(ひまつり)』や秋の『匠のまつり』といった陶器市の話題を聞いたところで、笠間が関東地方では益子焼と並ぶ窯業産地だということを思い出した。

笠間焼の歴史は、江戸時代中期にさかのぼる。いまの笠間市箱田の名主・久野半右衛門が、近江・信楽から陶工を招いて窯を作り、その後も笠間藩主が保護して、甕や摺り鉢、徳利といった日用雑器を生産。江戸などに向けて出荷されていたという。幕末から明治にかけては大量生産にも対応し、技術者や職人も増えて、19の窯元を数える厨房用陶器の一大産地となったそうだ。

その産業を支えたのが豊富な陶土。関東ローム層から出土する笠間粘土は、粘りが強く粒子が細かいため焼き上がりが丈夫で、可塑性に優れているため、ろくろによる成形が発達。陶土には鉄分が多く含まれているので、焼くと赤黒い陶器になるが、絵付けや白い土を溶かして装飾するといったさまざまな手法が編み出されていった。

戦後はプラスチック製品などにおされ、一時期、生産量が減少したが、1950年に茨城県窯業指導所が設立され、釉薬の改良や原料の研究が重ねられた。そうした流れから、若い陶工を養成し、工芸陶器への転向を模索。作家の個性を尊重する自由な創作工房や作家が増え、海外でも評価される作品も作られるようになって、1980年代には100を越える窯元が、伝統的な製品から個性的なオブジェまで、さまざまな作品を作り出している。

こうした笠間焼のなりたちから、自由な創作風土が育まれ、工夫や個性に富んだ 多種多彩な作品を生み出している。

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