第2回
岩村先生との出会い
2012.02.21 [功能 聡子]
山の上にある病院
私が途上国で働きたいと思うようになったのは、長年ネパールで医療活動をされた日本人医師、岩村昇先生との出会いがきっかけでした。
岩村先生は、大学生の時に広島で被爆し、奇跡的に助けられた経験から、「人助けに徹しよう」と医者になることを志します。鳥取大学医学部を卒業後、聖路加国際病院の日野原先生がネパールへ医療奉仕に行く医師を求めていることを知り、ネパール行きを決心。1962年から18年間ネパールで働いた日本の民間人による海外協力ワーカーの草分け的存在で、現地からの通信をもとにした著書も出版されています。父の本棚にも、『山の上にある病院~ネパールに使いして~』という先生の著書がありました。
私が中学1年生の時、岩村先生が来校し、ネパールの話をしてくださいました。先生のお話は、まるで映画を見ているかのようなインパクトがありました。
先生の働く診療所まで山道を7日間も歩いて来た重症患者さんの話や、赤ちゃんを残して亡くなった患者さんの話など、貧困や病に苦しむ人々の話も多々ありました。しかし、不思議と私の記憶に残ったのは、美しいヒマラヤの山々を見ながらネパール人の同僚と巡回診療に出かけたことや、マンゴーやパイナップルなど珍しくておいしい果物が豊富なこと、また孤児を預かり大人数でにぎやかに暮らしたことなど、現地での楽しい暮らしについての話でした。楽しそうだなあ、私も大人になったら先生のような伴侶とアジアのどこかで生活したい、と思ったものです。
今、先生の著書を読み返してみると、先生が赴任された当時のネパールには、人口約1千万に対してわずか80人ほどの医師しかいなかったようです。ポルポト政権時代が終わった時には、カンボジアに残っていた医師はわずか50人ほどだったという話と重なります。
国中が無医村のようだったという1960〜70年代のネパール。どれほど厳しい環境だったでしょうか。しかし、不思議と先生の話からは、ネパールが貧しく悲惨な国であるという印象は残りませんでした。
なぜ先生があんなに楽しそうだったのか?先生の生い立ちを知り、納得がいきました。先生のお父さんは、愛媛県宇和島の埋め立て地で工場を経営しており、住み込みの工員さんと「一つ屋根の下で寝、一つ釜の飯を食う」という生活をしていたそうです。先生は次のように言っています。
「ネパールの山村で、お百姓さんの家族とハエを追い払いつつネパール語で楽しく語らいながら食事をするとき、“ふる里”にいるような思いがするのは、幼少期の記憶につながるからでしょう」
やっぱり岩村先生は、ネパールでの生活が本当に楽しかったのだなと思いました。その思いが率直に私たちの心に通じたのでしょう。
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