私が見つけたライフワーク(3)

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第4回
フィリピンにはせる思い

シスター海野の決死の活動

バギオの日系人の歴史は、本当に壮絶なものでした。
彼らは1900年代初頭、首都マニラと高原地帯にあるバギオを結ぶベンゲット道路の建設のために出稼ぎにきた日本人の子孫。当時、絶壁の道路建設は困難を極め、約2300人の日本人労働者のうち700人もの方が事故や病気のために命を落とされたそうです。
その後、日系人の中には事業に成功する人も出てきましたが、太平洋戦争において日本軍がフィリピンに侵攻、多くのフィリピン人が犠牲となったことから、反日感情が高まります。
戦後は、フィリピン人から迫害と報復を受けるようになり、日系人であることを隠しながらバギオ周辺の山中にて肩身の狭い困窮生活を送っていたそうです。(私たちが訪問した時も、現地の方から日本軍の残虐行為や村々を焼き払ったことなどが告げられ、いたたまれない場面もありました。)

シスター海野がフィリピンに渡った時の年齢は、60歳。日本での教職生活を終えた後だったそうです。
彼女は日系人が戦後30年たっても人目を避けて暮らしている事実を知り、山間の村を一つ一つまわり、隠れて暮らしていた家族を探し出して支援する活動を一人で始めました。
「フィリピンを背負って立つ人材の育成こそが日本とフィリピンの真の友好につながる」として、奨学金制度を創設。現地の人々の生活向上のために農業共同組合を設立するなどの活動も行い、人々の誇りの回復と発展のために働きました。

彼女の献身的な活動を知った賛同者により、シスターの死後も活動は続けられ、奨学金の受給者はのべ2000人を超え、日系フィリピン人の全国組織も結成されたそうです。
何事にも動じない強さを感じる方ではありましたが、質素な修道尼の服に身を包み、静かに語る方でした。

シスターのはからいで、地元のイゴロット族の家族の家にホームステイさせていただき、子供たちと遊んだりご飯を一緒に食べたりしたのは楽しい思い出です。
しかし、彼女や戦争当時を知るフィリピン人の話を聞いていると、歴史がまるで目の前の現実のように迫ってきました。
日本がアジアの人々の間でどのような存在なのか、そしてこれからどのような関係を築くべきなのかを、深く考えさせられる経験でした。

※シスター海野の生涯は、鴨野守著「バギオの虹」という書籍になっています。

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