第12回
あやしく咲くヒガンバナ。かつては重要な植物だった
2012.09.11 [西原 升麻]
墓地のヒガンバナ
しかし、その昔ヒガンバナは、実用として日本人の生活の中に溶け込んでいたのです。
日本は飽食の時代といわれて久しいですが、その昔は飢饉(ききん)との戦いに明け暮れていました。現代までの期間は、有史で考えても1800年、縄文時代からなら約1万6000年あるわけですが、この間で飢饉が全く無かったといえるのは戦後のわずか67年くらいでしょう。ということは、飢饉のない期間は有史では3.7%、縄文時代からならわずか0.4%しかありません。ですから、飢饉や非常時の食物を確保しておくことは昔の人にとってはとても大事なことだったのです。
「救荒植物」というあまり聞き慣れない言葉がありますが、飢饉などのときに食用にできるヒガンバナのような山野の草木を「救荒植物」といい、沖縄ではソテツなどもその仲間だそうです。また、土手や畦(あぜ)の崩れを防止するためにヒガンバナを植えるという習慣が残っている地域もあり、ヒガンバナはかつて人々の生活の一部だったのです。江戸時代になり、サツマイモが普及してからは、ヒガンバナの救荒植物としての役目は終わり、有用な植物であることは次第に忘れられていったようです。
なお、気をつけなければいけないのは、ヒガンバナの球根(正式には鱗茎(りんけい))には毒があるということです。ですから、そのままでは食べられません。食べるためには、水にさらして毒を抜く必要があります。
田んぼのヒガンバナ
ヒガンバナは、墓地や河原などでよく見かけます。田んぼや畑、野原でも見られますが、山の中では見かけません。ヒガンバナは、昔から知られているので日本の花のように思えますが、もともとは日本に自生していた植物ではないとされています。
海外からやってきたものなら帰化植物というわけなのですが、帰化植物図鑑にも載っていません。
それだけ古くからあるということなのでしょう。
ヒガンバナは、最も古くて縄文時代から、新しくは足利時代ころからあったという説があります。この辺の決着はついていないようですが、いずれにしても揚子江(ようすこう)流域からやってきたことは判明しているようです。
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